【読書感想】抽象の世界へようこそ/清水幾太郎『論文の書き方』

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この本、実用書というよりは著者一個人の経験や考えをまとめたものになっているので、論文を書く具体的な方法がわんさか書いてあるわけではない*1。そこだけは注意してほしい。

 

著者の清水幾太郎は、昭和の時代を生きてた人で、社会学者だった……らしい。

私自身、この本で初めて名前を知ったので、詳細なことはよく知らない。

ウィキペディアを張ってやり過ごすとしよう。

 

清水幾太郎 - Wikipedia

 

自由な感想を自由な長さで書くという方法は、あまり文章の修行には役立たない。むしろ初めは、こういう自由は捨てた方がよい。要するに、文章の修業は、書物という相手のある短文から始めた方がよい、というのが私の考えである。(p9,p10) 

 

自由に書けと言われても、型を習っていなければ途方に暮れる。

いくらでも好きに書けと言われると、まとまりがなく文字数稼ぎの文章になりがちだ。

いきなり長文が書ける人は少ない。まずは背伸びしすぎず、短くて簡単な文章の型で書いていくのがいいだろう。

 

文章を書く際は、イメージや思いつきが必要だ。イメージが文章全体の設計図だとしたら、思いついていく観念はその部品である。イメージが観念を生み、新たな観念がイメージを塗り替えていく。これを何度も何度も繰り返すことが重要だと著者は考えている。だからこそ、まずは部品を作る練習から、つまり短文を書くことを勧めるのだ。

 

いざ論文を書くことになったら、自分の意見や見解を盛り込まなくてはならない。たとえ誰かに批判されそうでもであってもである。ただ事実を羅列して、他の本の言葉を引用してという調子では、まるで大学生が単位取得のために文字数稼ぎをした卒論みたいになってしまうことだろう。

そんな及び腰では、何も伝えることはできない。誰にも嫌われたくなくて口をつぐむようなものだ。そんな文章は誰にも批判されないどころか、書いた本人の評価をも失墜させかねない。

大いに自分の考えを盛り込んで、批判されるときはコテンパンにされればいいのである。そこから必ず学ぶことがあるはずだから。

 

文章を書くというのは 、ロゴスと固く手を握るということ、即ち、言葉を使い、論理を重んずるということである。(p108)

 

文章の強みとは何なのだろうか。他のメディア、テレビやラジオと比較すれば分かりやすいだろう。

それは、抽象的なことを深く追求して、掘り下げることができる点にある。例えば、綿密な描写表現、複雑な因果関係の説明、心情描写なんかは文章が適している。私たちの頭の中にあるぼんやりとしたイメージを、緻密に、詳細にアウトプットするとなれば、書くことが一番手っ取り早い*2

 

このこと念頭に置き、清水幾太郎は文章でしか表現できないものを提唱した。それは未来であった。

彼はテレビの存在を非常に注目していた。当時のテレビは、今以上に存在感があったことだろう。スイッチを入れて画面を見れば、映像の世界へ私たちは誘われる。何もしなくても、映像が様々な情報を一方的に提供してくれる。受動的に情報を得られるというのはとても楽だ。自分で読み進めなくてはならない文章と比べれば、手軽さは段違いだ。

ならば、文章はこれからどういった役割を担えばいいのだろうか。清水氏は、テレビが過去と現在しか表現できないこと指摘し、テレビにできないことを文章で表現すべしとしたのだ。

 

未来は文章によって把握され、表現されねばならない。映像の意味は文章にある。いかにテレヴィジョンが発達しても、未来というものを信ずる限り、私たちは今後も文章を書き続けて行かねばならないであろう。(p223)

 

私自身、文章にはもう一つ大きな特徴があると思う。

それは、誰でも書けて、平等であるということ。

テレビとは違って、文章を書くのには大掛かりなセットは必要ない。自分が書きたいと思えば、誰にでも書けるという平等さは注目したい。

こういうブログやSNSなんかは、文章を書くのにはうってつけだ。

文章を書くのに身分や場所やお金は必要ない。いつでもどこでも、自分だけの抽象を表現できるのだ。

 

あなたも、抽象の海を泳いでみませんか。

 

 

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

 

 

*1:新書に実用書としての側面を求める人はそうそういないだろうが

*2:ものすごくスキルの高い絵描きの人ならば、絵で表現する方が簡単なのかもしれない。ゴッホとか